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三国志演義

『三国志演義』(さんごくしえんぎ)は、明代に書かれた中国の通俗歴史小説。四大奇書の一つである。『三国演義』、『三国志通俗演義』、『演義』と呼ばれることもある。著者は施耐庵あるいは羅貫中であるとされる、後漢末・三国時代を舞台とする時代小説・歴史小説である。『三国志演義』は版本も多数あるが、現在、多く流布している版本は清の毛宗崗が校訂・加筆を行った「毛本」である。完訳版は、井波律子訳でちくま文庫全7巻、立間祥介訳で徳間文庫全8巻のち4巻、小川環樹他訳で岩波文庫全8巻が刊行している。

日本での誤解 [編集]
日本では通例『三国志演義』と呼び習わされるが、中国では『三国演義』あるいは『三国志通俗演義』と呼ばれる。

日本ではしばしば単に「三国志」と呼ばれるが、『三国志演義』は、講談で語られてきた物語と西晋の陳寿によって書かれた歴史書『三国志』(のちに清によって公認された正史である二十四史のひとつ)などの歴史書の伝える逸話を綜合してつくられた小説作品で、歴史書の『三国志』とは異なる作品であるが、渡辺精一によれば既に清代に『三国志演義』を『三国志』と呼称している例があるといい、混乱を招いた。本来『三国志』と呼ばれてきた陳寿の書いた歴史書との混同を避けるため、日本の愛好家の間では『三国志演義』を『演義』、陳寿の『三国志』を『正史』という呼び分けが行われることもある。詳細は「三国志」の記事を参照されたい。

前史 [編集]
後漢末・三国時代を舞台とする説話や講談は古くからあり、既に北宋の時代には劉備と蜀漢を善、曹操と魏を悪役とするイメージが定着していたという記録を蘇軾が残している(東坡志林)。 元代には『全相三国志平話』(全ページ絵入り三国志物語)が刊行されており、『三国志演義』の原型の一つと目されている。 このような潮流の中で『三国志演義』は成立した。

作者と評価 [編集]
『三国志演義』の作者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。

元末・明初に成立したとされる本書は、蜀漢を正統・善玉とする講談の潮流を維持しながらも、それまでの説話や講談にあった極端な荒唐無稽さや歴史年代を無視した展開を排し、黄巾の乱から呉の滅亡までの後漢末の重要事件と陳寿の『三国志』の扱う範囲を収めている。漢王朝の血を引く高潔な主人公劉備と王朝を支配し専横を振るう曹操との対立軸を中心とした高い物語性、史書への精通に裏打ちされた逸話の巧みな選択と継起、白話(口語)とは言いながらも洗練された文章で人気を博した。

『百川書志』文中の評にはいわく、「正史に根拠を置きつつ俗伝で装飾し、史文を考証しながらも大衆の好みに通じ、低俗とならず虚構とならず、それでいて読みやすく入りやすく、史家の伝統的古文によるものではないが、盲目的な叙述や面白おかしく書き立てる態度からは離れ、百年間を叙述して、おおむね全ての出来事を包括している。」とある。

現存する最古の版本は明の嘉靖元年(「嘉靖本」。1522年)のものである。これ以後多くの版本が現れ、明末に広く通行した「李卓吾本」と呼ばれる系列の諸本は日本にも流入し、元禄年間に和訳が行われた際の底本となっている。現在、定本とされているのは清の康煕年間に刊行された毛綸・毛宗崗父子によって纏められた「毛本」であり、邦訳や出典も多くがこの版に寄っている。

本書は中国の小説では珍しく、知識人の読み物として認められた存在であり、しばしば蔵書目録に『水滸伝』とならんで掲載されていることが指摘されている。吉川幸次郎は、『三国志演義』は明・清の中国に於いて、もっとも広く読まれた書物だろうと推測している。

作品内の人物像 [編集]
『三国志演義』の前半は「仁徳の人」劉備と「奸雄」曹操の対比を軸に展開する。そして、後半の主人公格である諸葛亮が登場すると、物語は彼の超絶的な知謀を中心に展開し、五丈原に最高潮を迎え、一気に収束する。作中のエピソードは史実に多くの脚色が施されて作られているが、重要な戦いの勝敗や重要な事件の結果はほぼ史実通りである。

史書の記述と比べると、後漢王朝の再興を目指す劉備と蜀漢側の人物の人徳と活躍がフィクションを交えて大きく取り上げられている。また、作中でも史実と同様、劉備が劉璋を騙して益州を攻め取る話など、劉備の善良なイメージを損なう話も書かれており、『三国志演義』は単純な勧善懲悪な話ではないと言えるだろう。

曹操陣営の人物は天子を擁し専横を振るう悪役であり、しばしば姦計を巡らすが、作中の曹操陣営の姦計・悪事の多くは魏晋南北朝時代に書かれた『三国志』(陳寿著)・『後漢書』(范曄著)・『曹瞞伝』(著者不明)・『異同雑語』(孫盛著)等に出典がある。ただ、同じ事柄について諸説ある場合は、曹操について悪く書かれている説が採用される傾向が強いようである。

『三国志演義』の戦争は猛将同士の一騎打ちが多く、呂布・関羽・張飛・趙雲らが卓越した武勇を発揮している。

清の毛宗崗は三絶(三人の傑出した人物)が登場すると述べ、智絶(知者のきわみ)の諸葛亮、義絶(義人のきわみ)の関羽、奸絶(悪人のきわみ)の曹操の三人の名をあげている。この3人は作中屈指の名将であり、将軍・参謀として大いに活躍している。

とりわけ、義理と人情の化身である関羽は、羅貫中がもっとも力をこめて描いた人物と言われており、生涯に亘ってスポットが当てられ他の武将とは別格の活躍をしている。ちなみに関羽が自ら顔良を討ち取った話は陳寿の『三国志』にも書かれており、『三国志演義』の関羽が自ら顔良を討ち取った話は史実準拠であると言えるだろう。しかし陳寿の『三国志』によれば、華雄を討ち取ったのは孫堅軍であり、『三国志演義』の関羽が自ら華雄を討ち取った話はフィクションである。

また作中の諸葛亮は卓越した智謀の持ち主であるだけでなく、占いにより人の寿命を知ることが出来るなど呪術的な能力を持った人物として描写されている。

全体として主人公格である劉備・諸葛亮ら蜀漢陣営と、悪役である曹操ら魏陣営との対立をメインにしているため、孫権ら呉陣営の取り上げられ方はそれらに比べると地味である。これには、呉は当時の中国にとって辺境の地であり、実際に後漢?三国時代の呉陣営が関わった重要な戦役は魏・蜀漢陣営ほどは多くないということが理由として考えられるだろう
日本における影響 [編集]
日本における影響については、「日本における三国志の受容と流行」を参照されたい。

日本以外における影響 [編集]
上記の通り『三国志演義』は士大夫の鑑賞に堪える水準に達しており、その用法は通俗小説の域を越えていた。明・清代には兵法書としても読まれており、実際に李自成・洪秀全は兵法の参考にしていたという(黄人『小説小話』)。

また、順治7年(1650年)に刊行された満州語版『三国志演義』の巻頭には大略「作中の善行を鑑とし、悪政を戒とし、国人に興亡の理を学ばせよ」というドルゴンの諭旨が収められた。さらに順治帝は桃園結義にならって蒙古諸汗と兄弟の盟約を結び、満州を劉備、蒙古を関羽になぞらえた上で、蒙古との関係を保つべく関帝信仰を公認した(徐珂『清稗類鈔』喪祭類「以祀関羽愚蒙」)。『三国志演義』が単に兵書として用いられるに留まらず、王朝の対内・対外政策の根幹に影響を与えていた事が知られる。

そして、毛沢東は『三国志演義』を子供の頃から愛読し、「人民は阿斗になってはいけない」と発言するなど、『三国志演義』の登場人物を引き合いに出していたという。

中国中央電視台で製作された『三国演義』は制作費100億円、エキストラ10万人、製作年数4年、全84話にも渡る大作で黄巾の乱から晋の成立まで描かれている。2008年には、ジョン・ウー監督のもとで赤壁の戦いをメインにした、『レッドクリフ』が公開された。

三国志演義は中国以外のアジア諸国でも広く受容されている。タイ王国では、19世紀初頭のチャオプラヤー・プラクランによる現代タイ語訳の『サームコック』が人気を博し、後のタイ語文学やタイの文章語の成立に影響を与えた。

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2009年04月13日 09:34に投稿されたエントリーのページです。

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